ブランショはこの高名な象徴派詩人について幾つかの文を書いている。この「マラルメの沈黙」は、マラルメの世界の<抄訳>に過ぎないことは、マラルメと言う詩人の偉大な詩想(技法)とその結果の、ブランショの評価から知れる。ブランショはいわば、フランス語で書かれない詩人の世界をフランス語で意訳しているように見える。「骰子一擲」を彼は最高度に評価する。この「マラルメの沈黙」は傾倒する詩人の讃歌となっている。
<沈黙>は十九世紀中盤の登場した象徴派詩人、ヴェルレーヌとランボーとマラルメに冠せられる場合、一人目は愛する男との痴戯から殺人未遂による牢獄からの不幸、二人目は、二十歳で詩作を止めてアフリカに商人として渡って以後の行方不明のことを言う。三人目の沈黙は、ブランショの指摘から次のようなものである。
(マラルメが自分の詩法の不安について)
沈黙の悪魔的な模倣にほかならぬあの留保つきの告白に属するどういったものにも頼りはしなかった。つまり彼は可能な限り、ヴェールを取りのぞき、おのれの精神を公的なものとした。だとするとあの謎はいったい何に由来するのだろうか。他の多くの人びとと同等ないしはそれ以上に語っていながら、いったいどうして彼は、あのように深く口をつぐんだという印象を与えうるのだろうか?
ブランショは批評家アンリ・モンドールの『マラルメの生涯』を書評しながら、幾つかマラルメ賞讃のポイントを挙げ詩人の<沈黙>に迫る。ではこの<沈黙>とは何か。
題材は「エロディアード」である。一つ目の賞讃は次のように語られる。
人々は彼(マラルメのこと)
の芸術という眼に見える結実に感嘆するが、何ひとつ可見のものに至りつくことのない、その働きが或る入りこみがたい純粋な不在のなかにあったような作業について、思いみることを止めないのである。そのような不在において詩人は真に絶対をとらえたのであり、この絶対を偶然から引き出した奇蹟的な結合によって、いくつかの語で表現したいとねがったのである。
作品が、書かれてあるものが見えず、つまりとらえられないでいるけれども読者は詩人の居ない場所における詩を読もうとする。マラルメはいない。もちろん実際にそこにいないと言うことは無い、しかしながら詩の世界におけるあらゆる所作は純粋なものに尽きるのである。詩ほど純粋なものは無い。詩は言葉の現実性(手段)に指示にしたがわず、指示内容に制御管理されないで、言葉自体の所作による意味を創出するのである。詩はそのようにして始まりそのようにして終焉する。つまり止まる、つまり死ぬ。亡骸に触れることのできる読者は、滅んだマラルメの魂を空想するだけだ。そのように、詩人の純粋なる不在は、いよいよ読解の欲望を滾らせる。
この文に現れる「絶対」こそは詩の真実に違わず、詩想に沿いながら意図的に繰り出された言葉が偶然と言うのか奇蹟と言いのか、読解に「のように」立ちふさがるから、その事情は、詩人の悩みを皮肉るものである。なぜならば詩人は根底において「表現を願う」からだ。したがってこの断絶は、希望もしなかった詩人の<沈黙>の契機となる。
ブランショの二つ目の賞讃するポイントに驚嘆すべき事実がみられる。
彼(マラルメ)
は形式的完璧への意志にもとづいたこの詩法が、その実現が宇宙の創造に匹敵するほどのおどろくべき不可能性を持った何かであることを識別している。彼には、書かれた作品がこの世界の重さと神秘と力とを持っているように見えるのだ。それは存在しないことが不可能なものとして存在している。それを否応なく沈黙へ導くはずの拒否のひろがりと数とによって、沈黙からおのれを引出している。それは語の世界の支配によって作られているがゆえに、世界全体を支配しているのだ。
二十三歳という若さでここまでの詩の方法に到達していることにまずブランショは驚き、同時に詩人がその中に不可能性を信じていることに驚いている。中盤から、この文章は読みにくいが、つまり詩が充分に世界の内実に対応してその本質なり謎を引き受けることとは、読者の読解との<断絶>のうちに成立することを知っているという点に驚いているのである。なんという背理だろう。
詩的言語による世界の支配(理解)は、すなわち言語の本性の働きのうちに、つまり構成のうちに見出されつかまえられるものであって、まさに記号論的な意味内容の伝達遮断のうちに実現されるという逆説なのだ。すなわち一文多解の事態をそこに想定している。マラルメの想定はそのようにしてなされ彼の詩的意図の<沈黙>が生成している。これは詩の読解に対して重大な危機を予告しているようなものなのだ。
詩を書くものは誰でも知っているが、受け止められている限り詩の美しさと善良さは保全されるだろうが、詩の神秘(ブランショの言う「真に絶対」)はどんどんあばかれ解体されていく。神秘とは、とても個人的な話題である。でも、次第に詩人の内部は空虚になり言葉が生産物と消費結果に成りはてていくから、それはなんとしても歯止めを据えなければいけない、と詩がそう警告しているというわけである。
だからといってマラルメは安穏としていたわけではなく、表現の不毛、精神の疲労、自己内部にある深淵、「なにかであることに対する無際限な拒否」たる夜を自覚しているから、而して絶望が詩人を囲繞する。
マラルメの到達点をブランショは指摘するのだ。
彼は語を意識し熟視することから、あの至上にして完全な法悦を引出し、純粋な音綴りによって、霊的な人間が抱懐しうるもっとも豊かでもっとも貪欲で、もっとも多くの幸福と絶望をはらんだ夜をおのれのために作りあげた唯一の人物である。また何よりもまず、彼はことばによる陶酔や幻惑によってではなく、語の方法的な配置や、動きやリズムについての実に独特の知性や、ほとんど何ひとつ表明することなしにいっさいを創造する力をそなえた純粋な知的操作によって、あの奥深い夜の集合体を目覚めさせた唯一の人物なのである。
マラルメ的詩法の内容をブランショはこのように推定している。たぶん真実は別のところにあるだろう。何ひとつ表明しない言語になんらの場所は知らされはしない。真実は分かる。でも場所は不明だ。「エロディアード」だけの批評にすむわけではないと思うのだ。ところで批評はここでとまることはもちろんない。
<断絶>がもたらすものは、読者の読解への欲望の炎上と、詩人が生み出す「沈黙」ということになる。
彼の精神と彼が思いをこらした作品との関係についてはほとんど何ひとつ知られないだろうというのは、今やひとつの事実である。或る特殊な質をそなえた沈黙が存在するのであって、この沈黙がいつか消え去るのを眼にする希望はもはや存在しないのであり、この沈黙は故意に作りあげた秘密によってその支配権を確立されたようには思われないだけに、いっそう注目すべき神秘的なものなのである。
でもマラルメは大勢の人々の間で饒舌になって作品を公開している。詩作の苦労、不安、精神の在り様を包み隠さずに語ったのに、人々に間に広がる詩人の<沈黙>は、結句、詩人の閉じられた口を象徴的なものにする、とブランショの指摘が続く。多弁なのに沈黙がこだましている、不可解な状況。かくしてもたらされた<沈黙>の中身はどうなっているのか。
いっぽうマラルメにおいて、「書く」行為を襲う完さ、拷問のような苦痛、技法に寄せる疑惑、止まらない思索は、詩人に苦悩のみ与え、この苦悩について吐露する言葉が「イジチュール」制作までに姿を消している、とブランショは疑問を投げかける。それは詩人の核である「絶望」の消滅に起因していると言うのだ。
「絶望」。使い古されて味気もない言葉になってしまった「絶望」は、詩作の必要かつ十分な条件にまで堕している。絶望「すら」の消滅は、人目に曝されることを拒むことによって、ないしは詩作において根本的な解決・発見が詩人に地震を与えることによって生じるものなのか。消えてしまった絶望の地平に佇む詩人の声は聞き取れないものになろう。あるいは無言。言葉の不在。それらから強力に練り上げられた世界の再創出はいかなる詩の展開を見せるのか。この議論は別途「マラルメ・考」を要請することになろう。
哲学的思索を擬態とする著者告白の書、『内的体験』。第二次世界大戦中、ドイツ軍のパリ占領下で書かれた。しかし戦争と関係していない書であると著者は言う。
主著「無神学大全」三部作の一番目にあたるこの作品は、ジャンル別に仕分けの不可能に使いもので、或る心的状況をめぐるバタイユの思考の渦動が表現されている。もとより著者自身が文字に置き換え不可能といい、他者への伝達不可、読解拒否の自働性を本性として認めるバタイユの心的状況は、なるほど分かりづらい。
筆者は日本人であり西欧精神の風土に密着している(かのように思える)心的状況は理解できない。という前提の上で、この作品を無責任に解読していく自己中心的な錯覚に基づいて思えば、ひとつの難解でもなさそうな感想を得る。
陶酔、絶頂、至高の瞬間は、特別な宗教における同感覚と似ているのではないかと推しはかるのだが、それはけっして悪いものではない(なさそうだ)。それから、このことを理解・把握・同感・同調・並行するには、まずもってバタイユを愛し心酔していることが必須なのかもしれない。バタイユの個人的な事柄に属していると同時に万古不変の永遠の真理かもしれないから。何について?。言わずもがな、人間の<生>にかかわることだ。そして人間ではじめて「このこと」を直感的に理解し、不吉な言語表現に落とし込むのに悪戦苦闘したのが「無神学大全」を書いたバタイユである。
人間は自己意識に目覚めて以来、長い長いその自己意識の形成時間を通して、不幸な二回の戦争を経てある覚醒に至っている。つまり我は我なり。他者ではない。我が我である場合は時空間の限定を超える性質が要求されるはずだ。と言うのも彼は第二次大戦時下にあり、ファシズムの抵抗運動を行い、表現活動に限定やら禁止を食らい、丸裸の意識下でその要求にこたえようと試みているからだ。虚無の色彩を帯びる平和的状況は神話に堕しているとするなら、この絶対的な不自由さのなかで、絶対的な渦動的な至高経験の継続は稀にみる、詩作活動ということにもなろう。
「このこと」―或る心的状況、神秘性言語に包まれた「このこと」は素敵なものである。悪くはない。人間が確かに求めてやまぬことだ。
いわく、精神の絶頂とは何か。たとえば性交のエクスタシー、己を失うほどの虚脱感、激情にからんで心が白色におおわれる、涎をたらし脱糞するのに、あいかわらず人間としての自覚があり、吐き気と苦悩と恐怖が連綿と続いている。そのような心的光景。これは誉れ高いとは言えない。逆に恥じるべき状態だ。
「この本はある絶望の物語だ。人間にとって現世は解くべき一個の謎としてそこに存在している。わたしの生涯は―私のあの重苦しい瞑想の時にも劣らず奇怪な、錯乱したその一刻一刻は―この謎を解くべく費やされた。」という文章で始まる『内的体験』はどのような展開を図るか。とにかく謎は今現在にある自分自身の存在理由の分析に集中していく。いま生きているわたしは、生きているといえるか? この設問は人が自分に対して与えた最初の質問であり、回答は宗教哲理に、晦冥な哲学の思索に、文学の曖昧な空想事情に封じられてきたが、もうそんなことに振りまわされることなく、徹底して自己による回答を得なければならないという宣言文章であると思う。
第二作にあたる『有罪者』でバタイユはこう言っている。
戦争については語るまい。神秘的体験について私は語ろうと思う。私は戦争に無関心でいるのではない。私はよろこんで私の血を、私の疲労を、さらには死の近間で私たちの至りつく、あの藩性の瞬間をも捧げるだろう。…だが、私の無知を一週間でも、どうして私に忘れることができようか。
二作目だが書き出しはこちらが先なのである。第二次大戦開始時に書かれた『有罪者』の序盤で、あたかも体験してしまった「神秘的体験」についてバタイユは口走っているが、そこから展開される体験の中身とは何か、が知りたく思う。
<内的体験>は絶頂の精神を言い表し、その瞬間(永続しない)は最高水準の陶酔と恍惚は、体現されかねない美の課題の回答であるとともに、回答しえない体現美である。それは自分の心を満たしあふれ出る時、自身は、私を私にとり憑かれることになる。ここまでが限界の言語表現から、バタイユの体験報告はその周囲を、象れない言葉の可能性の限界の上限下限の領域を往来し再開し繰り返していく。遮断された言語化の有為転変は思想形成を許さない。
書の中でバタイユは断片的に述べるが数行の後に、書かれたこと事実が空虚にまぎれていくような感じがする。いくつか引用してみる。
私の言う内的体験とは通常、神秘的体験と呼ばれているもの、すなわち恍惚の、法悦の、少なくとも瞑想がもたらす感動の状態を意味するものである。ただ、私が考えているのは、今日まで人々の固執してきた信仰告白の体験ではなくて、赤裸の、いかなる信仰告白にも縛られず、またそこに源泉を持つこともないような体験である。神秘的という言葉を私が好まないのはそのためだ。
この引用文は「内的体験」の序文にあたる。つまり書き出し―言わば、書きはじめ、書いている、書き終えるという一連の現象は、作者の心の発生して理性的なフィルターを通過して、ペンに憑依し言語に身をゆだねている…かのように見える。それは誤りである。その文は内容を裏切りの行為をなしているのである。つまり説明できぬ、という現象が起こっているというわけだ。
(くだくだと声明文を並べ立てて)
こんな陳述にはいかにもわかりにくい理論的外見があって、これを匡すのに、私にはただ「この陳述の意味を内部から把握しなければならない」というほかすべがない。
Experienceは経験とも訳せ批評家により体験であったりとまちまちの訳があるけれども、経験ではない、体験なのである。初体験を抽出して獲得するひとつの永続的な概念が経験であって、ひとつの「指標」を意味する。でも内的体験とよばれるこのことは指標を拒否するものなのである。それはこのことはいかにして可能か、と盟友ブランショに質問した時のブランショの短い返答に含まれている。
それ自体が権威であるけれども常に権威はその罪を償なわねばならぬ、とブランショはアドバイスをしている。
体験は何度も何度も記述が可能であり「不完全な言語機能」により時刻の中で存在しても、それは各人の記憶にとどめ置かれない。記述に価値はないのだ。しかしながら、経験知として、経験則として各人の記憶の底に帰着する場合、価値は大いにある。
記述されない分、各人はいつもそれを思い起こさねばならないからである。思い起こすのである。そしてそれはいつも傍にいる。内的体験はいつも傍らにいる、言明され得ない可能態なのだ。
●いましばらく、お待ちくださいませ。
ジャン・ポーランの『タルブの花』についての、ブランショの批評3本。
(ポーラン、素敵です!)
それからバタイユは『空の青み』、「社会批評」に掲載されたファシズムに関する論文を読んでいます。
●ブランショの「いかにして文学は可能か」はポーランの「タルブの花」の読解と合わせて語りたい。いましばらく時間がかかりそうです。
バタイユは遅々としています。「青空」と無神学大全の二番目「有罪者」を読んでいます。
内的体験から「
非-知」の問題に進みたいと考えています。
「モナリザ」の作者が画家にとどまらない人であることは誰でも知っているが、なかなか本人の考え方、いかなる人物として理解しなければならないかは、難解でありながら楽しい問題に属する、と思う。逸話と残されたダ・ヴィンチの手になる断片録、それからヴァレリーの批評から類推していけば、興味深い理解が得られるだろう。
ひとつめはダ・ヴィンチの性格である。分からないことは分かることの予備的な条件として見なすという性格・考え方だ、とブランショは指摘する。
彼(ダ・ヴィンチ)ほど、すでに知られたものと結びついた普遍人も大芸術家も、大学者も存在しないのだ。知り得ないものはただ単に、彼にとって無縁であるばかりではなく、彼にとって何ものでもない。彼は、それから目を外らせる必要はない。なぜなら彼は、彼に見えないものを、必ず見られるものの最初の契機と化しているからだ。或る比類ない視力をそなえた彼の眼は、それ自体として不可視なものを、彼がそれに出会わないという事実だけで、否応なく存在しないものにしてしまうのだ。つまり知られざるものは、知られる可能性のあるものとしてしか、彼の注意力の中に位置を占めることはない。
不可能性へ通じる「分からない」ことは、ダ・ヴィンチの思考の本質の断面をいろどるもので、つまり周りのものすべてを可能性の塊として見なすことを言うのであって、自然に隠された謎は無尽にあり、それらはやがて解かれうるものとして見なすダ・ヴィンチの視線は世界を全体性のものとして投げかけられているのだ。
彼が再構成しうるような自然こそ、彼の好奇心のアルファにしてオメガなのである。
「分からないもの」を不可視なもの、見えないものと仮定してみよう。
光のなかから一つの手があらわれる。賢者は手の存在から人の在りかを推論するにとどまるのだが、「素朴な人」は天才と通じる資質でもってたちどころに「人が見える」と言う。眼に見える歴史はあたかも表皮の出来事のように思われるが、表で活躍する「天才」(指導者、科学者、革命家、芸術家など)と目に見えぬ底支えの力=民衆の裏の存在の組合せから、歴史を捉えなおし、生き生きと史実の生命ある動態を再構成しながら語らなくてはならないとする(歴史をいま生きているものとする)十九世紀の歴史家・芸術家、ジュール・ミシュレの言葉でもある。
人の目にふれていないものを見ること、それは第二の視力である。来つつあり、生まれつつあると思われるものを見ること、それは予言である。(中略) 賢者たちの嘲笑をまととなるものだが、一般にそれは素朴さというものの生来の才能である。(『民衆』、ミシュレ)
ブランショが思わず筆にした「再構成」の力とは、科学芸術歴史などを横断する能力をいう。論拠はダ・ヴィンチの絵画論にある。詩(文学)、音楽、彫刻と絵画の違いから説明していることからはじまり、『絵の本』抜粋抄は絵画の優位性を語るのだ。
いま挙げた四つの芸術の比較から彼が唱えるのは絵画の能力の高さと効能の優秀さに尽きている。
まず時空間で立つ芸術の、偉大さにおける兄弟たる「彫刻」は、大理石の中に潜む形象を取り出すのに、おおわらわな出来事であるかのようにして騒ぎ立て、汗をかき、石片を散乱させてアトリエは薄汚くさせる。いっぽう絵画は染み一つなく、物静かに奏でられる鳥の音楽のような滑らかさを高貴な優しさでくるみながら、事物に隠された形象を美しく抱きすくめるのだ。槌の響きではない優雅な音楽を従えて、画家のアトリエは清潔極まりないものなのである。
これは比喩として、塑像の形成過程での「面」(ロダン)の外の空間の処理は、絵画制作途上に出没するカンバスの余白あるいは外の空間の処理の差を詰めることができないということだ。
「彫刻」はあまり苦労せずに在るがままのものを示す。「絵画」は触ることのできぬものを触れるように、平らなものを浮上がっているように、近いものを遠いように思わせること、奇蹟さながらである。じっさい、
「絵画」は無限の思索で飾られているが、「彫刻」は思索を使用していないのである。(ダ・ヴィンチ、「絵の本」から)
次に、ダ・ヴィンチは音楽を絵画の「妹」と定義しながらも音楽の瞬間の連続と不連続にあらわれるハーモニィの重大な価値を見ている。しかし、音楽は途切れると虚空に消える。残された音楽のテーマは音の印象の過去に移されて、しかも思い出からも消えてしまう可能性がある。まるで死者の相貌がいつまでも記憶の館に掛けられているのに、死者の声の記憶が行方不明になるように。
と言う訳で音楽は本質的に現存で有り続ける運命のもとにあるから、音楽は「薄倖」なのだと言える。
「絵画」は「音楽」にまさりこれに君臨する。何故かならそれは、薄倖な「音楽」のように、生まれた直後に死にはしない、どころかむしろ存在しつづけて、じっさい単なる一片の平面に過ぎないものに生命を吹き込んで君に見せるのだから。(ダ・ヴィンチ、「絵の本」から)
次に、詩(文学)と対比する場合、ダ・ヴィンチの舌鋒は鋭くなる。徹底している感がする。
物の本質を見抜くフェーズでは、絵画は詩に差をつけざるを得ないと言うのだ。過激なもののいいようだが…。(詩人のはしくれとして、筆者も動揺してしまう)
「絵画」は一瞬のうちに視力を通してものの本質を君に示す。しかも印象が自然の対象を受けいれるのと手同じ手段によるのであり、かつ同一時においてであるが、全体――それは感覚を満足させる――を構成する諸部分の調和的均整はこの同一時につくられるのである。「詩」も同一のことに関係するが,眼より効果の乏しい手段によってである。(ダ・ヴィンチ、「絵の本」から)
ダ・ヴィンチは、詩の対象と印象のあいだには視覚(眼の存在)に劣る混乱と遅速があるが、眼は現前にある対象の、表面と形象の真実在を呈示するものだと言い切る。ダ・ヴィンチには「詩」(‘文学)の作り上げる言語による形象は、或る場合は科学者から、或る場合は哲学者から、或る場合は天文学者の言説を切り貼りするだけにとどまり「各種各様の職人の手でつくられた商品をかきあつめる商人以上の値打ちはない」(ダ・ヴィンチ)、とまで断じるのだ。
しかしながらこうした天才の発言には、それでも絵画芸術が世界の本質を語り得る最高の形式であることの、強力な説明であるとは言い難い。
その点について、ブランショは「見えないもの」は可能性の全体を言い表しているとするダ・ヴィンチの証明から、彼における絵画の位置を述べる。ダ・ヴィンチが言いたくても言えなかったか証明なのだが。
レオナルドの神秘をもっとよく意識するためには、さらにまた次のことを思い起こす必要がある。すなわち彼は知り得ないものをその注意から遠ざけ、もっぱら知り得るものだけを研究しているとしても、彼が獲得し得るいっさいの知識といっさいの天賦とを、絵画と言う、まさしく知り得ないものが表現されているもののために用いているのだ。周知のように彼にとって、絵画はさまざまな芸術の一つと言ったものではない。彫刻や詩と同じような一つの活動ではない。それは至上の目的である。(中略)絵画はあらゆるものについての知識を要求するのであり、いっさいは、何ものかが描かれていると言う状態にいたりつかねばならないのだ。自然をあますところなく知る? そうなのだ。だがそれは、絵画と言う手段によって、自然をあますところなく、再び作り上げることができるようになるためなのである。
ブランショが鋭く言い当てているダ・ヴィンチの芸術論の根底には完全なる自己同一性が横たわっている。「それ」はもう完全な一言に尽きるし、欠陥、逸脱、欠損、破局は至高性の範疇には無い。それらはあくまでも予備的部分として位置づけられているからにほかならないからである。だから、彼の眺める対象が一般の世界から、芸術的な視座により持ち上げられ切り取られ、内部の秘密が解答されゆくとき、結論がすがすがしい雰囲気の中の絵に現われて永遠に存在を、循環的に続けるのである。
これこそ人間の活動の究極的な対象であり、真の理由である。
ダ・ヴィンチのなかの絵は答えでありまたは謎として、鑑賞者の、いや制作者(画家)にさえ現われている。詩(文学)の混乱ぶりと遅さ、音楽の時刻における消滅のはかなさ、彫刻の面が面以外の空間をみじめなものにしてしまう非-理知的な醜さを持たぬ、絵画の力は称揚に値する技芸なのだ。哲学を科学を包含する「
盲目いた詩学」(ダ・ヴィンチ)なのだ。
重ねて言えば――音楽が沈黙を捨て、彫刻が余す空間を捨て、詩(文学)がテキストの瑕瑾を捨て、そのうちに、絵画は捨て去られたそれらすべてを吸収するのだ。
すなわち地獄の業火に遭遇しない限り「絵」は鑑賞者の沈黙を友人としていて、すなわちカンバスの余白に余す空間を兄弟として、すなわちタイトル表示の文章を絵の一部とする詐術に詩(文学)の描写を多色の混合の内に絵の一部と為す。絵画はデミウルゴスの傑作のひとつとして数え上げられよう。
このブログの更新が止まっているかに見えますが・・・
ブランショ読書はただいま
「ダ・ヴィンチの手帖」でして、いま原典に当たっています。まだしばらく時間がかかります。
バタイユの方は
「社会批評」時代の異質性議論に関する3論文を読み始めています。小説の読解は『青空』を終えましたが、いまひとつピンとくるものがありませんでした。
いましばらく時間が必要です。
2014.1.26