キルケゴールの内面に秘密があり、それは父親の背信的行為による強い憂愁と自己の内面に固着する憂愁であるらしい。と言うのも彼の秘密とは語られないものであり、伝達を本質的に拒むものとしてキルケゴールに厳しく悲しげに認識されているものであるからだ。婚約者レギーネ・オルセーとの婚約破棄という事件は何だろうか。キルケゴールをもっとも理解していたはずの彼女は解消される理由が分からない。そしてキルケゴールはその理由を話すと恐ろしいことになる、と言う。さて、いよいよ秘密めいている。
彼(キルケゴール)の著作は、時として、人間としての彼の真の姿をゆがめ、彼を不実なる誘惑者に変えており、しかしまた一方でそれらは、彼に婚約を解消させた深く宗教的な諸理由を立ち現われさせてもいるのだが、これは、彼のいいなづけが、あいまいさに打ち勝ち、あらわにされることのない秘密そのもののなかで、彼と流通することを可能ならしめるためである。語られるものが、かくされねばならならぬもののしるしとして立ち現れるとき、はじめて伝達がある。開示のいっさいは、なんらかの開示の不可能性のうちにある。
実存哲学の祖の「日記」は神秘的だ、と言ってもいいくらいの記述で埋められている。恋人レギーネとの婚約と解消、そして他の男の妻になった彼女への兄としての関係復活の要請(これは夫婦の話し合いにより断られている)。この三つの出来事は何を意味しているのか?
キルケゴールの思想解説ではなく「表現」についてのみ考察するブランショのこの書評では、もっとも目を引くのは秘密をどのように開示して伝達に持ち込むかという点である。「日記」を読んでも目を痛くなるほどの嘆きの言葉でうずめられ、ブランショをして「哲学や、神学や、詩や、打ち明け話や、夢想や弁証法的な創意などの行きあたりばったりの結合」と言わしめるほどの、隠された感情の混雑が知れる。極度に一般化され寓意的な簡便な話体に盛り込まれた、深い不安と孤独と絶望の、カフカの日記とはまるで違う。カフカの日記は行きあたりばったりでもなく、しかし結合はしていない。自己との対話において、キルケゴールは、ひとつのぬぐいえない憂愁と棄てた恋人への未練に終始している。カフカにては存在の問題と恋人との果てしない距離は同等だ。カフカは煩悩を露わなかたちで語らないが、キルケゴールは塩辛い水で湿気ている。彼の日記の中の苦悩の告白はブランショの指摘通りとなろう。しかし日記は伝達の容易さを保証しない。
レギーネは発表される都度に作者名を変える、「見えない」キルケゴールの哲学的著作に切られてしまった愛の理由を知ることはない。なぜといって彼は伝達の拒否を前提に書物を編んでいるから。変名しても自分の思想内容は伝達し得るはずだという前提がある。しかしこの前提はどうしてもばらけてしまうのだ。カフカの”K”のこだわりとは逆さまになっている。
誰かが、絶望によって極限されて書き始める。だが、絶望は何ひとつ極限出来ない。「それは常に、また直ぐにその目標を越えた」(カフカ「日記」1910年)。同様にまた、書くことは「真の」絶望を、何ものにも導かず、あらゆるものから外らせ、何よりもまず、書いている人からそのペンを取去るような絶望を持ち得まい。
(「カフカと作品の要請」)
カフカは絶望を日記の中でそのように書いている。より正確に長めに引用すると
絶望というものが、退却を掩護するためにわが身を寸断される兵士の絶望のようにはっきりしていて、それほどその対象に結びつき、極限されているものなら、それは本当の絶望ではない。本当の絶望は己の目標をすぐに、そして常に追い越してしまい、(このコンマのところで、最初の文章だけが正しいということがわかった。)
お前は絶望しているのか?/そうか? 絶望しているんだな?/逃げ出すのか? 身を隠そうとするのか?
文士はしゃべるとき悪臭を発散するものだ。
(カフカ「日記」1910)
ふたりの日記のなかでの自分の現れの食い違いを探究するのは難問になるだろうが、ブランショの指摘している伝達不可のうちに伝達という、いわばアポリアに堂々巡りするとき、カフカ的な、つまり書くことと絶望のそれぞれの極限が交互に抜いたり抜かれたりする内面劇が浮かび上がる。事実としてたくさんの書物がかかれ一方は実存主義の祖先となり、他方は現在においても解決できない難問となっている。一方は麗しい臭いをはなち、他方は隠れるつもりなのかと糾弾して悪臭をはなつ。そういえばブランショは自作のなかで、至高性に捕らわれている群像に、とりついている匂いにこだわる人であった。