『シーシュポスの神話』は任意に開いたページから読み始めても(これは”悪い読み”なのだが)、哲学者ではない文学者カミュの不条理についての感想を受け取ることができる。いわば「不条理の辞書」。カミュは「不条理」と言う謎に踏み込むが、得られるたくさんの寸評はいつも”暫定的な”形式をまとって現れるのだ。つぶやき、箴言、詩的散文、晦冥なる哲学的思念、などの暫定的な”形式は、どこかそれ自体が不条理の側面を言い表しているように思われる。切り口が多彩ならば、得られるものも多彩となるように。カミュの書き方はこういうことになる。
…これまでは結論と考えられていた不条理が、この試論においては出発点と見なされているということをここに書きとめておくのは意味があるだろう。不条理を出発点としてその先へ進んでゆくからには、ぼくの注釈には暫定的なところがあるといえるかもしれない。不条理というこの出発点がどのような立場に至らせるか、それを進みだすまえから決めることはできないからである。(カミュ)
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ムルソーの問題
ここから始まる、見出された不条理の精神は、条理に満ち満ちた完全性を目指す、あるいはその瞬間瞬間における合目的性の真実を無前提にして完全性を目指している、世界を”簡易に解釈(あるいは内在)する精神”は、目指している精神自体を裏支えする裏側の精神の存在を知る。いわば、自己二重化の精神の外観がここにある。不条理な精神が合理的要請(解釈、自己批判、説明、展開)をしりぞけて、人をして現実生活に不案内にさせてしまう事実は…生活は時間の音楽に操られているけれども、不条理の精神はそれに操られることは無い。いつも裏切られている合理性を越え出ていくものなのだ。どのようにしてかと言えば、要請を拒み、反理性的な行動に「見出されている」という無責任さにおいて。ぎらつく太陽と、頭痛の始まる頭と地中海の砂とワインによること。それらの事物が意味ありげな「見出され」を構成している。
アルベール・カミュは『異邦人』を書いてその辺々の仔細を表わした。ムルソーの行動と言葉に見られる感情を持たぬ音楽は、淡々と蕩尽していく時間を操り、彼の生活の実態と他人から特定することのできないような哲学を構成する。その哲学は小説『異邦人』の底に流れていて、時間の音楽はあたかも死体のそばに設置された心拍の直線波形とみなされてもいい。ムルソーは無自覚に不条理を内包する。海岸で夏の太陽に焦がれつつ、彼は一発を友人の敵のアラビア人に撃ちこみ、やや間をおいて四発の弾丸を死体になったアラビア人に撃ちこんだ。死刑の判決を受けたムルソーは判事の、なぜ間を置いたのかという質問に答えない、答えることができない。彼は回想すらままならないが、実はこういうことである。
第一発め。カミュはまことに冷酷に、ムルソーの恐るべき「なにか」の始まりに踏み出すその瞬間を描いている。
ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は縦尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まったのは、このときだった。(「異邦人」)
何の始まりなのだろうか。読者は途惑う。彼の殺人行為の流れの開始のことなのか? たぶん一分に満たないその時間に、ムルソーはピストルそのものに化している。鋼鉄に思考は無い。銃口はすでに、判断すべき対象の死者に向けられている。死体に何らの自分の判断があるのだろう。まして殺意の意味がすでに失われている。突然の撃鉄を起こす瞬間から、現れた、傷んで、いたましい死体のアラビア人。
私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の特殊な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび撃ちこんだ。(「異邦人」)
太陽はいつも彼の頭上に存在し全責任を彼から委託される表象になって彼に付きまとうことになっている。灼熱の光を浴びせ続ける太陽。「垂直に砂の上に降りそそぎ海面できらめく」太陽のせいでムルソーは「半分眠ったような状態」にあって、太陽は「圧倒的に」彼の前に在り、海と砂浜と協働して静寂を為している。その静寂は彼に「ひどい頭痛」をあたえ、えんえんと「光の雨」を彼に浴びせ続け、彼はいたたまれず「不透明な酔い心地」から逃れ出ようとした。そのときにアラビア人と遭遇したのだ。灼熱のなかの忘我寸前の彼は殺意をその遭遇を契機として太陽に向けたはずだったのである。
ところでこの後、彼は「不幸の扉をたたいた」四つの音に似ていると思った。四回の狙撃はたしかに不幸の契機と言える。撃たれるべき太陽はママンの葬儀の最中にも彼に微笑みかけていた。そいつは法則の名のもとに東から姿を現して、ムルソーに付きまとう。いつからか彼は太陽の惑乱に自然にふるまうことになっていた。
昼間の均衡という不断の幸福は何物にも替えがたいものであって、マリー・カルドナの美しい肉体と情事の快楽と楽しい仕事は捨てられない幸福であるはずだったのに、それは潰えて、彼は太陽に敗北する。だから呟いた「不幸」なるものは太陽から与えられた駄ボラであって、彼に関係のない言葉なのだったから。
太陽に対する殺意は判事には理解はできないことだろう。まして始めの一発の後の間の理由が。彼にもわからない、不思議なことに。喋ってもかなり荒唐無稽なものになるのだから、彼は沈黙してしまう。
さてこの沈黙が、その「間」と同じことであるのだ。ためらいでなく、恐怖でも、怒りでもない。いたたまれない感動的な衝動がそれである。昼間の均衡は幸福のことでなく、幸福にいたる条件のことに他ならない。均衡はムルソーの生きていることにまとわりつく全包囲の諸関係のことだ。ムルソーのこれまでの快活な生活はこの諸関係の安定に起因している。また、浜辺の沈黙とは、安穏とした彼のお気に入りの生活を支えている条件の比喩である。
さて判事の質問の場面に戻ろう。判事は、なぜ間を置いたのか、なぜ死体に弾丸を撃ち込んだのか、と尋ねるのだがムルソーはどうしても答えることがままならない。「あなたは行為を悔いているのか」と問われて彼は「実を言えば悔恨より倦怠を感じている」と答えるのである。太陽も砂浜も輝く海面も答えを彼に与えないから、彼は言葉にしようとするも彼には不可能であり、殺意もなく、したがって動機の無い殺人に、彼は沈黙を強いられる。倦怠。説明不可、証明不可、解釈不可の内面であくびをしているのに違いないムルソーは、しだいにあの徒労に見える労働に挑むシーシュポスに接近しているのである。
彼の内部では転げ落ちていく岩を見て、さて降りなくては、俺の岩が俺を待っているからな、というシーシュポスの呟きが響いていることだろう。山頂まで岩を押し上げる労働は合目的では無い労働である。無意味な労働は苦痛である以上に倦怠なものだ。動機が無いからとりあえず太陽を持ち出したムルソーは改めて、終了しようとしいる自分の満喫した生の”快活と快楽”を再確認しているのである。愛するママのいない快活と快楽。俺は間違っていないはずだ、という呟きがシーシュポスの内面を通じて彼に響き渡って来る。