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シーシュポスの問題
『シーシュポスの神話』に展開される不条理の探求についてブランショは以下のように思っている。
この著作を、現代の人間を解明する試みとして、ばらばらになっていた思考や感覚の諸形態を同一のパースペクティブのもとで結び合わせると努力として読む人びとは、そこに、彼らにとって示唆的な様々な分析を見出すことだろう。しかし、アルベール・カミュがかかわっているのは、もっと重要で、もっと面倒な何かである。不条理は、はっきりと見るための手段として用いられてはならない。人びとは、不条理に直面するのであり、それは、徹底的に推し進められない限り馬鹿馬鹿しいものでしかありえないような経験のなかに保持されているのだ。
ブランショの指摘とおり、不条理だと感じた瞬間は絶えない生活事の連続のなかに表れては消えてゆき、感じた者の分析意欲からいつもまぬがれている。こうだ、と措定したとき、すでに不条理は、まるで使いようの無い観念の遺体として見出されているばかりなのである。ブランショは「精神」という言葉を使う。厳密にいえば「理性的精神」なのだろうが、それは不条理に向き合う時に、世界と人間をかわるがわる見つめ、よく分からない不確かな経験の総体に、なんらの一体性を掴もうと試みる。謎だらけの世界を、不条理な世界を、そして悩む人びとを「精神」は眺めるばかりなのだ。
(不条理は)
人間の欲求の対象である絶対と、この欲求に対する世界の答えである相対との、絶えざる対質から生まれるのだ。(ブランショ)
不条理の定義はこの著作にふんだんに表れてふんだんに打ち消される。カミュの悪戦苦闘は歴々の哲学者、文学者の例を呼び出しながら彼の持論を吐き出すのだが、どれもそうなのか、と読者にすんなりと納得させない。そこでブランショは「理性」を登場させる。と言うことになると極北の対として「非-理性」なるものが想定されることになる。理性は狂気の悪しき双子であるから、認識の絶対性はかくもあやうく崩れてしまう予感を与える。だから『シーシュポスの神話』では、哲学の思考体系から不条理はいつも漏れているということをブランショは言う。
ともあれカミュの引用する哲学者の「この世界の不可能性」(ブランショ)を理性の力を援用して、無意味が思考の一つの様式であるということを示すのである。しかもそれは新たな理解のかたちである、と。
なにもかも説明がつくか、あるいはなにひとつ説明がつかぬか、ぼくはそのどちらかであってほしいと思っている。しかも、この心情の叫びをまえにして、理性は無力なのだ。こうした欲求に刺激されて覚醒した精神は探求を開始する。が、見いだされるものは矛盾と背理的な論証、ただそれだけなのだ。ぼくに理解できぬものとは条理を欠いたものだ。世界は、こうした理性では説明のつかぬものにみちみちている。ぼくには世界の唯一絶対の意味が理解できない。(カミュ)
不条理はたくみに避けられている。或るときは、理性への答えとして、謎めいた世界へのその問いが提示され、或るときは、この世の非了解性が、より高位の意味作用を持った真理性として示されている。理性は、空しく問いかけることを承認し、このような敗北のうちに、おのれを超越に導く道を見出すのだ。(ブランショ)
そこに露出しているのは「哲学の自殺」である。哲学の自殺とは何か――それは或る「飛躍」のことを言っている、というブランショの指摘にしたがうと、この世の非合理な具体性の展開は、考察・理解しようとする理性に対立していて、具体性に満ちた現存が不条理を不断に産出ししつづけ、幾つかの不条理に関する理論なり考察が「理解不能の」この世から或る「非合法的なやり方」で脱出していくということになる。
無力なる理性とは、考えるだに恐ろしい発見である。合目的な行為が実は意味を欠いている行為であること、しかもつつがなく普通の日常を形成しているということは、いっぽう世界が謎に満ち、不確定な要素がふんだんに隠匿されたままであるのに「非理性」が闇のなかで輝きを放つということになるのである。つまり、狂気が不条理の探求の途上に登場する。
不条理を<約束>の不履行と見なす。砂漠の中にうずもれている石板に描かれた無垢なる直角三角形も、現代の数学の教科書の中に印刷された直角三角形も、三平方の定理を秘めている。内包されている自然の定理を<世界>はその存在を約束しているのだ。つねにその真実をかなえると言う約束している。でも、ときどき<世界>はその約束を守らないし、保証しないと首を横に振る。
これはどうかしている、常軌を逸した行為だと抗議しても、声は届かない。一発目の後のしばらくの間を説明できないのは、<世界>がこの約束を不履行するときの証拠であり、そのとき当事者も囲む他者も、一体としてその非合理に抗議をするか途惑いながら退場することになるだろう。東から正確に登らなくとも、ずれながら太陽が、不可解な表情で空に姿を見せるとき、太陽を見る者は<世界>から距離感を覚える。これは空想談話であるにしても、或る種の危機を前提にしていることだ。あり得ていることはいつもあり得ていることを、必ずしも、保証しない。保証するのはその者の胸の内に在る根拠である。信じているという根拠に在るのだ。「神」でもなんでもいいが、履行する主体を信じていることである。だから不条理の理論・考察はあらかじめ、その信じていることを否定してかからねばならないのだ。つまり人間性の再確認なのである。
不条理とは<世界>-神の持ち合わせている、法則、権威から外れるときに自覚されるからだ。
カミュの名付けた「哲学の自殺」は、かくして「思考が思考を否定して、否定そのものへ思考が向かう」ことと言い表わされる。昨日思考したこととされたものは今日は否定の対象になり、そこから芽生えいずるものは、批判の対象に、超越されるものとしてとらえられることを前提に思考されねばならない。外れることが考え得るからだ。すなわちそのような思考とは…。
実存哲学者たちにとっては否定がその神である。正確にいえば、この神は人間的理性の否定によってのみささえられているのだ。(ブランショ)
まず否定。そして飛躍して永遠を目指す。
本質は飛躍するといことにあるが。その飛躍のやり方はいろいろなのだ。まだ、飛び超えられることのない障害をまえにして、それを否定してしまうという、あの贖いを保証する否定、あの最終的矛盾は、ある宗教的霊感から生まれうるものだし、同様にまた理性の次元からも生まれうるものである。(こうした逆説こそが、いまここに展開している論証の目標なのだ)。この否定や矛盾はつねに永遠を憧れている、ただ永遠のみを目がけて、それらは飛躍を行うのだ。(カミュ)
ともあれ試みなければならぬ「飛躍」は永遠を目指していて、とどのつまりは「いくら渇望しても絶えず裏切られる世界に明確さと統一性を渇望し続ける人間の不条理な在り方を受け入れなければならない」(ブランショ)の地点に着地するものである。不条理こそは「唯一の所与」である、とブランショ。
「より善く生きる」のではなく「より長く生きる」がカミュの与える結論だ。高邁な理想に近づけながら生きなおすのではない、したたかに生き延びるという苦悩の生を肯定するのである。苦悩は不条理に間向かいながら解決を積極的に断念し、生の哲学の構築を語る。
こうして不条理な人間は、炎と燃えあがりしかも冷たく凍った宇宙、どこまでも透明でしかも限界のある宇宙、なにひとつ可能ではなくしかもすべてがあたえられている宇宙、それを過ぎた先は崩壊と虚無にほかならぬような宇宙を垣間見る。そのときかれは、このような宇宙のなかを生きることを受入れ、そこから力と希望の拒否とを抽き出し、慰められることのけっしてない人生を執拗に証ししようとする決意をかためることができるのだ。(カミュ)
人生の証への決意がここにある。廃墟のような周辺の世界の残存に何も見出すことはしない、何もないことを認めてなお、人間は「執拗に」自己を訪ねて生きなければならない。それし言い換えれば、生きる意味と言う底辺に沈む骨格に他ならない。
もしぼくが、この人生には不条理という顔しかないということを納得すれば、もしぼくが、この人生の均衡は、ぼくの意識的反抗と、その反抗がさながらもがくようにして行われる場である暗黒との果てしなくつづく対立にもとづくことを、身をもって知るならば、もしぼくが、ぼくの自由はその限られた運命との関係においてしか意味がないということを認めるならば、そのときぼくはこう言わねばならぬ、重要なのはもっともよく生きることではなく、もっとも多く生きることだと。(カミュ)
おもわずカミュが叫ぶ場面なのだが、言わんとするところは真摯に伝えられてくる。生きることの苛烈なまでの探求の態度につられてこの著作はさまざまな箴言を呈して終わる。不条理から「反抗」「自由」「熱情」という三つの帰結は、不条理に直面して不条理の中に生き抜くと言う矛盾を超越する条件として見なされよう。そしてカミュは熱く生への讃歌をうたうのだ。
不条理の人間は、もっとも明白な不条理性に向き合うように虚無に向き合っており、自分が自分自身の生を受け入れ、経めぐり、さらには拡大さえするに足りるほど、自分自身の生に対して異邦人であると感じている。彼は生きることが不条理であるがゆえに生きるのだ。そして彼は、能うかぎり能うかぎり、長いあいだ行きたいと願っている。(ブランショ)
不条理であるからこそ生きると言う強い意志でもってブランショの批評は頂点を迎えている。讃歌であれ意志であれ、生に勃発する可能事としての不条理は、死に直面する不合理を、虚無に続く深刻なる非理性を演じながら、かえって(苦しみと悩みを抱えているけれども)人生を鮮やかなものにする。問題は人間がどのようにこなしていくか、だ。
各個人はそれぞれの「墜落していく自分の岩」を見下ろさなくてはならない。シーシュポスって誰? と、もはや言っておれないのである。