「モナリザ」の作者が画家にとどまらない人であることは誰でも知っているが、なかなか本人の考え方、いかなる人物として理解しなければならないかは、難解でありながら楽しい問題に属する、と思う。逸話と残されたダ・ヴィンチの手になる断片録、それからヴァレリーの批評から類推していけば、興味深い理解が得られるだろう。
ひとつめはダ・ヴィンチの性格である。分からないことは分かることの予備的な条件として見なすという性格・考え方だ、とブランショは指摘する。
彼(ダ・ヴィンチ)ほど、すでに知られたものと結びついた普遍人も大芸術家も、大学者も存在しないのだ。知り得ないものはただ単に、彼にとって無縁であるばかりではなく、彼にとって何ものでもない。彼は、それから目を外らせる必要はない。なぜなら彼は、彼に見えないものを、必ず見られるものの最初の契機と化しているからだ。或る比類ない視力をそなえた彼の眼は、それ自体として不可視なものを、彼がそれに出会わないという事実だけで、否応なく存在しないものにしてしまうのだ。つまり知られざるものは、知られる可能性のあるものとしてしか、彼の注意力の中に位置を占めることはない。
不可能性へ通じる「分からない」ことは、ダ・ヴィンチの思考の本質の断面をいろどるもので、つまり周りのものすべてを可能性の塊として見なすことを言うのであって、自然に隠された謎は無尽にあり、それらはやがて解かれうるものとして見なすダ・ヴィンチの視線は世界を全体性のものとして投げかけられているのだ。
彼が再構成しうるような自然こそ、彼の好奇心のアルファにしてオメガなのである。
「分からないもの」を不可視なもの、見えないものと仮定してみよう。
光のなかから一つの手があらわれる。賢者は手の存在から人の在りかを推論するにとどまるのだが、「素朴な人」は天才と通じる資質でもってたちどころに「人が見える」と言う。眼に見える歴史はあたかも表皮の出来事のように思われるが、表で活躍する「天才」(指導者、科学者、革命家、芸術家など)と目に見えぬ底支えの力=民衆の裏の存在の組合せから、歴史を捉えなおし、生き生きと史実の生命ある動態を再構成しながら語らなくてはならないとする(歴史をいま生きているものとする)十九世紀の歴史家・芸術家、ジュール・ミシュレの言葉でもある。
人の目にふれていないものを見ること、それは第二の視力である。来つつあり、生まれつつあると思われるものを見ること、それは予言である。(中略) 賢者たちの嘲笑をまととなるものだが、一般にそれは素朴さというものの生来の才能である。(『民衆』、ミシュレ)
ブランショが思わず筆にした「再構成」の力とは、科学芸術歴史などを横断する能力をいう。論拠はダ・ヴィンチの絵画論にある。詩(文学)、音楽、彫刻と絵画の違いから説明していることからはじまり、『絵の本』抜粋抄は絵画の優位性を語るのだ。
いま挙げた四つの芸術の比較から彼が唱えるのは絵画の能力の高さと効能の優秀さに尽きている。
まず時空間で立つ芸術の、偉大さにおける兄弟たる「彫刻」は、大理石の中に潜む形象を取り出すのに、おおわらわな出来事であるかのようにして騒ぎ立て、汗をかき、石片を散乱させてアトリエは薄汚くさせる。いっぽう絵画は染み一つなく、物静かに奏でられる鳥の音楽のような滑らかさを高貴な優しさでくるみながら、事物に隠された形象を美しく抱きすくめるのだ。槌の響きではない優雅な音楽を従えて、画家のアトリエは清潔極まりないものなのである。
これは比喩として、塑像の形成過程での「面」(ロダン)の外の空間の処理は、絵画制作途上に出没するカンバスの余白あるいは外の空間の処理の差を詰めることができないということだ。
「彫刻」はあまり苦労せずに在るがままのものを示す。「絵画」は触ることのできぬものを触れるように、平らなものを浮上がっているように、近いものを遠いように思わせること、奇蹟さながらである。じっさい、
「絵画」は無限の思索で飾られているが、「彫刻」は思索を使用していないのである。(ダ・ヴィンチ、「絵の本」から)
次に、ダ・ヴィンチは音楽を絵画の「妹」と定義しながらも音楽の瞬間の連続と不連続にあらわれるハーモニィの重大な価値を見ている。しかし、音楽は途切れると虚空に消える。残された音楽のテーマは音の印象の過去に移されて、しかも思い出からも消えてしまう可能性がある。まるで死者の相貌がいつまでも記憶の館に掛けられているのに、死者の声の記憶が行方不明になるように。
と言う訳で音楽は本質的に現存で有り続ける運命のもとにあるから、音楽は「薄倖」なのだと言える。
「絵画」は「音楽」にまさりこれに君臨する。何故かならそれは、薄倖な「音楽」のように、生まれた直後に死にはしない、どころかむしろ存在しつづけて、じっさい単なる一片の平面に過ぎないものに生命を吹き込んで君に見せるのだから。(ダ・ヴィンチ、「絵の本」から)
次に、詩(文学)と対比する場合、ダ・ヴィンチの舌鋒は鋭くなる。徹底している感がする。
物の本質を見抜くフェーズでは、絵画は詩に差をつけざるを得ないと言うのだ。過激なもののいいようだが…。(詩人のはしくれとして、筆者も動揺してしまう)
「絵画」は一瞬のうちに視力を通してものの本質を君に示す。しかも印象が自然の対象を受けいれるのと手同じ手段によるのであり、かつ同一時においてであるが、全体――それは感覚を満足させる――を構成する諸部分の調和的均整はこの同一時につくられるのである。「詩」も同一のことに関係するが,眼より効果の乏しい手段によってである。(ダ・ヴィンチ、「絵の本」から)
ダ・ヴィンチは、詩の対象と印象のあいだには視覚(眼の存在)に劣る混乱と遅速があるが、眼は現前にある対象の、表面と形象の真実在を呈示するものだと言い切る。ダ・ヴィンチには「詩」(‘文学)の作り上げる言語による形象は、或る場合は科学者から、或る場合は哲学者から、或る場合は天文学者の言説を切り貼りするだけにとどまり「各種各様の職人の手でつくられた商品をかきあつめる商人以上の値打ちはない」(ダ・ヴィンチ)、とまで断じるのだ。
しかしながらこうした天才の発言には、それでも絵画芸術が世界の本質を語り得る最高の形式であることの、強力な説明であるとは言い難い。
その点について、ブランショは「見えないもの」は可能性の全体を言い表しているとするダ・ヴィンチの証明から、彼における絵画の位置を述べる。ダ・ヴィンチが言いたくても言えなかったか証明なのだが。
レオナルドの神秘をもっとよく意識するためには、さらにまた次のことを思い起こす必要がある。すなわち彼は知り得ないものをその注意から遠ざけ、もっぱら知り得るものだけを研究しているとしても、彼が獲得し得るいっさいの知識といっさいの天賦とを、絵画と言う、まさしく知り得ないものが表現されているもののために用いているのだ。周知のように彼にとって、絵画はさまざまな芸術の一つと言ったものではない。彫刻や詩と同じような一つの活動ではない。それは至上の目的である。(中略)絵画はあらゆるものについての知識を要求するのであり、いっさいは、何ものかが描かれていると言う状態にいたりつかねばならないのだ。自然をあますところなく知る? そうなのだ。だがそれは、絵画と言う手段によって、自然をあますところなく、再び作り上げることができるようになるためなのである。
ブランショが鋭く言い当てているダ・ヴィンチの芸術論の根底には完全なる自己同一性が横たわっている。「それ」はもう完全な一言に尽きるし、欠陥、逸脱、欠損、破局は至高性の範疇には無い。それらはあくまでも予備的部分として位置づけられているからにほかならないからである。だから、彼の眺める対象が一般の世界から、芸術的な視座により持ち上げられ切り取られ、内部の秘密が解答されゆくとき、結論がすがすがしい雰囲気の中の絵に現われて永遠に存在を、循環的に続けるのである。
これこそ人間の活動の究極的な対象であり、真の理由である。
ダ・ヴィンチのなかの絵は答えでありまたは謎として、鑑賞者の、いや制作者(画家)にさえ現われている。詩(文学)の混乱ぶりと遅さ、音楽の時刻における消滅のはかなさ、彫刻の面が面以外の空間をみじめなものにしてしまう非-理知的な醜さを持たぬ、絵画の力は称揚に値する技芸なのだ。哲学を科学を包含する「
盲目いた詩学」(ダ・ヴィンチ)なのだ。
重ねて言えば――音楽が沈黙を捨て、彫刻が余す空間を捨て、詩(文学)がテキストの瑕瑾を捨て、そのうちに、絵画は捨て去られたそれらすべてを吸収するのだ。
すなわち地獄の業火に遭遇しない限り「絵」は鑑賞者の沈黙を友人としていて、すなわちカンバスの余白に余す空間を兄弟として、すなわちタイトル表示の文章を絵の一部とする詐術に詩(文学)の描写を多色の混合の内に絵の一部と為す。絵画はデミウルゴスの傑作のひとつとして数え上げられよう。