”マイスター・エックハルト”
エックハルトのことを「心から」識っているわけではないが、古今東西を問わず信仰は、様々な例えと箴言によって構成される「説教集」は意義深いことくらいは分かる。
その意義とは世界を知るという意味でも己を知るという意味でも、ましてより良き人生をどう生きるのかというハウツーの意味でも無い。なぜならそれらの定義は価値を前提として語られているからである。信仰は(たぶん)価値を前提としない、人間にとっての何かの本性を尋ねる根源的な問いであるように見える。結果そうした問いが何かをつかみ、人間に特別な覚醒をもたらしているのだ。
十三世紀のひとエックハルトは<離脱>という思惟の形式からすべてのものからの自由の問題を語る。
離脱した心は何ひとつとして望むこともなければ、自由になりたいと思うものも何ひとつとして持っていないからである。そのために離脱した心は一切の祈りから自由なのである。(エックハルト)
この言葉は一つの断章のようなものである。祈祷からも自由とは何か。教説にしたがえば純粋な離脱は離脱の対象を持たない。何故なら純粋な無の上に成立しているからとエックハルトは説教するのだ。それは最高の状態であることを意味し、神がその人の内で仕事をなしうる状態である、と。
信仰をもたない人間にもうっすらと分かるのは、永遠にして一なるものないしは本質それ自体というものが、それを目指す・思考する者か合一することを夢見るということである。掴み得たと信じた瞬間に真理は幻影と化して、さ迷うことの反復がある。常に攫む=失う、そういう生の動作が連続している。あらゆるものから自由である、そうした離脱をブランショは次のように翻訳している。
この思想の大筋は、その挫折しか示しえないような一体化の経験をめぐって、とどまることのない深化の運動を通して、この思想が提出しているものを、まさしく、この思想に前進することを可能ならしめているものを、つねにくりかえし問題としようとしてしているからである。まさしくこの意味で、脱却の教説は、苦行の各段階に、それを否定しとるに足らぬものとする別の段階が対応しているような真の具体的なあらそいなのである。
さてこの場合、人間存在は個別性においてつまり「魂」として継続的に続けるのであれば、それは畢竟、継続性における永続的な覚醒のうえに必然となるのだ。永遠にして一なるものは指呼の間にあり空虚な距離の果ての向こうに佇立する。
魂は、永遠の原型のなかで、創造されることなく存在する本質として在るためには、創造された本質である限りにおいては死ななければならぬ。
到達するためには魂の継続的な活動において死を通過しなければならないとブランショは語るのだが、死を思惟の根源的訂正から再生の契機としてみなし、人間存在の内省的持続のありかたは、ついに空虚な距離の果てに立つことも可能にする。むろんこれは言説上の出来事である。
神との合一から、はては神は<わたし>という前提からでしか存在理由を持てないというレベルまで・・・エックハルトの<離脱>から次のような結論があらわれる、とブランショは言う。
まさしく、この超脱というパースペクティヴにおいて、挫折は勝利となり、落下は高みへの運動となる。なぜなら、あらゆる尺度あらゆる目的を超えた信仰と言う至極の経験から見れば、救いとか、希望とか、至福とかいう観念は、もはや問題とならないからである。
一は端緒であり同時に本質を意味している。それは全てであり永遠なるものに違いない。西方浄土における輝きもガリレオを必死になって断罪した輝いていたものも、古来、こうした考えの上にあったに違いない。そして祈祷によってそれは求めて得られるものではないことも直観的に理解できる。信仰の保持云々は別として。いぜんとして不自由な人間はどうすればいいのだろうか。
ブランショとバタイユは大学時代に遭遇し、理由は忘れてしまいましたが二人の作品に食らいついて読みました。しかし敢え無く座礁。早熟な人間でない限りは、単なる学究的な興味ではアプローチも困難だなあと今でも思います。
彼らの文学、と言うよりはそれを含めた固有の思想の内容および往時のヨーロッパの精神史の変遷過程に魅入られないと、まるで無意味なのではないでしょうか。ブランショは「書くこと」に関する基本的に疑義を持つ持たないで、彼という存在の意味がまったく異なります。「書くということはいったいどういうことなのか」。この簡易に見えて意外に答えるのが困難な問題を彼は探求を続け、テキストは読者をそして作者を疎外するという結論を得ることにいたり、死と文学との関わり合いを語る。
いま生きている自分といまとはどういうことなのだろう、というバタイユの自問とは対極手な位置にて、ブランショはそうした疑義をすでに前提においてしまって、人間の為す表現行為の意義というのか意味と言うのか・・・それに対して根源的に問いを投げかけていますよね。それはとても大切な行為だと思うわけですし、そのような行為をしている文学者はあまり見当たらないように思います。
寓話形式と不条理なることの了解という不可解な内容の不合理な一致、「変身」が寓話スタイルで描かれ、人間が突然に毒虫になっているという不条理、なぜ不条理かと言うと解答のないまま渦中のザムザが何故か疑念をもたないというところ(それが了解ということです)、まさに「変身」という小説はどうしたって首を縦に振れずにはおられない不可解さを呈しているし、そのように筋立てで一致、すなわちカフカと読者の相互理解という可能性・・・ということなのです。
「ザムザの無言」とは毒虫の彼の声は人間の声として家族の耳には届かないという程度の意味です。
「アミナダブ」は建物と内部の人間の種別に惑うトマという外部の人間すなわち他者との対比が描かれている。でも、いま述べた感想は多々ありうる他との感想とどれほどの食い違いの有効性をもっているかとなると自信はありません。いま再度カフカの「城」を読みなおしているところです。
"
不安から言語へ"
書かれた作品、文章そして言葉は、書いた人、つまり作家の手を離れて自立するものである、とよく言われる。映画監督のフェデリコ・フェリーニもよくそうした意味のことを言うのは有名だ。映画でも小説でも、作品は勝手に一人で歩きだし、その歩く活力は読者にも作者にもまったく依存しない、ということである。
こうした言わば「弁明」のようなものは分かったようで、意外に分からない。あるいは理解しがたいものかもしれない。
例えば次のような文章になかに構成される、言葉と言葉の不可解な接続、そしてそうした接続によってもたらせされる<不安>についての考察の文章。
作家が口にする「私には何も言うことがない」ということばは、被告が口にするそういうことばと同様、そのなかに、その孤独な状態のいっさいの秘密を閉じこめている。
これらの考察が容易に辿りがたいのは、この作家と言う名前が、人間の或る状態よりもむしろ或る職業を示しているように思えるからである。
このなかで言われている「秘密」は作品に向かう動機、根拠つまり必然的な内発する様々なものの総体のことではないだろうか。でも作家は何もないという態度を取る。何故かということにつきあたる。この状態は人には誰にでもあるけれども、作家という職業のうえでは彼は語らなければならない。その理由は秘密という総体が、作家の全身を表すよう要求しているからである。
靴直しが不安にとらえられた場合は、彼は、自分自身をわらうことができるだろう。彼自身は、痺れて身動きが出来ぬ罠に捕らえられていながら、他の人々が歩くことかを許すのである。しかし、彼は、不安などと言うことが靴を修理する人間に相応しいことであるかのように自分の不安を語ろうなどとは思いつかないのだ。その不安な感情は、何等かの対象と、ただ偶然的に結びついているにすぎない。そしてこの感情がはっきりと示しているのは、人々がある限りない死の中に迷い込む原因であるこの対象が、それが喚起する感情にとっても、それによって苦しめられる人間にとっても、何の意味もないということである。
さきに引用した作家への考察の困難さについて、「不安」をブランショは引き出している。「不安」はそれについて作家が表した文章と言葉との間の、つまり両者の平滑的に語ろうとする大切なきっかけに当たると語られている。
人は誰しも不安を持つのは当然であって、むろん無い場合もありうる。まず不安の端緒として安定しない状態が存在する。私に対する恋人の愛、生きる意味が壊れている一時の心、作りかけのプラモデルが自分の不在の時に愛猫によって壊されるのではないかと言う落ち着かなさ、などなど。これは不安の「性」であり、ひとつひとつの場面のことであり、いつでも解決可能の事件であるが、「不安」はそれら全体を抽象して私にのしかかる。しかもそれは「偶然的に結びついている」。
引用したこの文書の最後に作者は「何の意味もない」と言いきっている。これとても意外な指摘であり、読者は惑いながら読み進むだろう。この断定な口調による説明はとても素適なのである。救済とは言えないにしても、解放の予感に満ちていると言える。
人びとは何によらずこういうような恐怖を感じながらおのれの執着の対象であったものが失われたと想像して死ぬような思いをする。ところが、こういう死ぬような恐怖を感じながら、人々は、この対象が何ものでも無く、置き換え可能な記号にすぎぬとも、何の内容もないきっかけにすぎぬとも感じているのだ。不安をはぐくみえない事物は存在しない。そして、不安とは、何よりもまず、その不安を創り出しているものに対するこのような無関心性なのであって、不安が、それと同時に、それが選んだ原因へ人間を釘付けにしているように思われるとしても、このことに変わりはないのである。
不安に関する考察は、無意味からさらに進められて何ものでもない、すなわちゼロの地点への回帰にある、となる。つまり究極の思考の果てにあるものは「無関心」であり、そう考えれば、日常・非日常の生活の、時間の、重い漆黒の反省する夜の空間の、付きまとう不安に対する人間の精神のかたちは「無関心」になるのだ。無意味なものに対しては無関心である、と、良い悪いではなく、人はそうあるものだと引用文章は語っているのだ。
しかし作家はそのままではいられないし、その位置に留まりつけてはならない職業の人である。このようにして、ブランショの文書の目的は、書くこととの考察つまり作家と不安の関係性の探求から始められていることがよく理解されるのだ。
不安は天空を開きまた閉じるものでありながら、この不安が現れるためには、机のまえに座って紙のうえに文字を書きつけるひとりの人間の働きを必要とするというのは、いかにもこっけいな、ふしぎなことにみえる。事実、これはおそらくショッキングなことだろう。しかし、それは、正気の承認の存在が狂人の孤独の不可欠な条件であるという事実がショッキングであることであるようにショッキングなのである。作家が現実に存在するということは、同一の個人のなかで、不安な人間のかたわらで冷静な人間が、狂人のかたわらで理性ある人間が生き続けることを証明する。
在りうべき作家の形式はこのようにまとめられる。作家自身の内部にあるテーマは特殊なるレンズで捕らえられた事物、そのレンズは狂気と呼ばれる非-理性的な直観とでも言うべき視線で磨かれており、しかし同時に冷静な理性的姿勢が全体を支える。全体とは作家の本質的な在り方と言うべきところだ。
ところでこれまでの引用された文章は、なにも表現者に対する評釈でもなんでもない、という具合に、ブランショの書物のなかに拡大して見てとった方がいいように思う。彼は哲学者でも無い書評家である。彼が書いた文章はその域を超えているかいないかは、読者の責任といえばそうなるかもしれない。
この作品は、1942年に書かれた。ブランショの小説第2作である。邪推(?)するに、この作品は<空間>に関する考察ないしは観照的態度による寓話と言えそうな小説だ。
主人公トマが或る建物の二階の窓に現れた女に魅入られて(導かれて)建物内部に入るところから始まる。居住人、職員、召使の人々と彼はいくつかの会話を展開するのだが、まさに百花繚乱とでもいうべきそれぞれの会話内容は小説全体の連続性を構成しない。トマは本性して通行人としての他者として描かれ、建物とその中にいる諸種の人々との対立ではなく対比が基本の構図としてなされている。だから連続性が構成されず虚構の展開がない。他者は関与しない<建物>=共同性に侵入して、その対比の数々を経験する。そして同時に彼はこの家について知りたがる。闖入者の彼は自身の部屋が割り当てられていない不満をかかえながら。
書評家としてスタートしたブランショは、あたかも自己書評をしながらペンを進めているように見える。そして読むわたしはそのように(仮にせよ)前提しなければ、連続性すなわち物語性を常に覚醒しつつ不可思議な「アミナダブ」の流れを把握することに困難が伴うと思う。
さて、<空間>に関する小説とは何か。
トマの紛れ込んだ家は以下のようである。
五階建てでそれぞれの階に部屋が六つありそのほかに召使の住む屋根裏部屋がいくつかあるが、職員は共同で住むほうを好むので実際は屋根裏部屋にはだれも住んでいない、とそこまでいったとき、かれはその言葉に耳を傾けるのをやめてしまった。彼女はひとから聞いただけの話をしゃべっているらしい、あるいはほんとうのことを話していないと感じられたからだ。
トマは眠りと覚醒を交互に繰り返す動物めいたものを感じてしまうこの建物の中を彷徨し、と或る広々とした集会にたどり着き職員を名乗る青年と長い対話を始めるのだが、その対話では内部の人間の紹介と説明が討議されるのだが、トマにはいまひとつ判然としないのである。彼は困るのである。極端に言えば、内容と形式の合目的一致を生きる彼にとっては不可解なことはあり得ないしあってはならないようかに描かれるのである。しかし実態はそうではない。
まえもって自分の住むべきところを知らないとき、どんないやな目に会うかを痛感してしまうと、扉から扉へつぎからつぎへとはねつけられ、空いている部屋さえ自分には閉ざされている、となると、はじめのころのあの不安定感を享受することはもはやできなくなり、自由とは恩寵を失った状態と思え、どうにかして失った恩寵を贖いもどしたいものだと思ってもなすすべがないのです。
(中略)
こうやって人びとは片隅に集まって滑稽な希望を反芻しながら、何日も何日も日を送っている。
彼らは建物の間取りを知っていると思いこみ、実は知っていない、彼らは理想的な住まいにいると安心してやがて死ぬのだ。この家は死人が増えそれを隠し、建物の栄誉を守らなくてはならないと職員は熱弁する。あり得ないととまが反論し、ふたたび居住人・召使・職員の対比が語られトマの反論が繰り返されるという対話が続く。この対話に表されるいわば<共同性>に関する理念ついて、読者は再考を迫られているかのようだ。理想と現実のはざまで生まれては消滅する<共同性>の考察は、政治的テーマであると同時に、知識人の中では通り過ぎではならないテーマであり、地続きの諸国家はそれぞれの議論があっても不思議なことできない。飛躍すると、国境と個々人の部屋について見極めてみたい。
ブランショの語る夢と覚醒の交互の中に存在する、実感のない建物と区分つまり個人との確立が幻影的なものとしてある場合、そのありようと実態の行く末が気になるのである。
最終ではトマは彼を誘った女。リュシーとの対話の中で男と女の遠近の謎を説明し、存在理由の一つであるこの女との関係に対してなんらかの幻滅の中で、彼は建物を出てしまう。闖入した建物の構造と内部の人間に決別を告げるトマと、出発が来たと告げる職員の青年。青年は言う。
「きみはだれか?」と、かれは、静かな確信のある声で言った。この質問で間もなくすべてが解明されそうだとでもいうふうだった。
「アミナダブ」はカフカ的である。カフカ的という意味はーわたしにとってー寓話形式とと不条理なることの了解という不可解な内容の不合理な一致、という単なるそういう意味である。G・ザムザは巨大な毒虫という<外部>で苦しみ死ぬが、トマは健全に歩き回り質問を繰り返す。彼にはザムザの無言がないのである。
(ブログ「リンクル氏のひとり言」2012/2/12より、加筆転載)
はじめまして。荻野央と申します。
学生の頃に"クリティーク"というフランスの雑誌が気になっていた時期に、モーリス・ブランショに接触しました。まるきり「問題意識」のないまま出版されているものを、少ない小遣いで渉猟購入したのでした。とにかく高額で苦学生には高嶺の花でしたが、それでもぽつぽつと買ったような気がします。
頭と時間が"自由"になったので、ジョルジュ・バタイユも一緒に"語られた内容"を辿りたいと思います。どこまで、いつまでできるのかは分かりませんが。
書くと言う行為はどういうことか、語られたことはどういう存在の意味を持つのか、そして死と文学とはどうなっているか。
生きると言うことはどういうことか。世界はどのようになっているか。
そうした疑問を持ちながら長い間生きてきました。その疑問の内容に探るために、この二人の大人(たいじん)、二つの巨きな<石>の閉ざされた言葉に触れてみたいと考えています。